匠の相駕籠

ソフトウェア開発会社の日常とオピニオン - メメントモリ公式ブログ

怒ることで人は変わるのか

家族が寝ついたあとに一人起き出して、子どもが落書きした床の掃除をしていた。

雑巾がけというのは心を空っぽにして、

一生懸命、床を磨き続けなければいけない。

他に余計なことが出来ないので、

雑巾がけをしているときは、自分の心を向き合うことになる。

 

禅寺などで、修行の一環として、

寺の掃除をするようなイメージがあるけれど、

それはとても合理的な時間なのかもしれない。

 

 

最近考えているのは「怒り」という感情について。

例えば、仕事で思った通りの成果が出ないとき「怒る」。

子どもが言うことを聞かないとき「怒る」。

 

つい最近、デール・カーネギー著『人を動かす』を読んだ。

この有名な書籍に、

例えば、思った通りの成果を出さない人を

「叱る」「怒る」ことで、

その人の行動を変えられるのか?という話題がある。

 

この本によると「叱る」「怒る」からは、

相手を変えることは一切できない。

ただ、その人から恨みを買うだけだという。

 

 

叱ることや怒ることには全く意味がないのだろうか?

つまりできるのであれば、

どんな人の失敗や、うまくいかないことに対しても、

ニコニコと笑顔でいれば、自然と流れるように物事がうまくいくのだろうか?

 

「怒り」に関しては、論語に「怒りを遷さず」という言葉がある。

これは人を怒ってはならないという意味だが、

江戸期の陽明学者、大塩平八郎はこの言葉を次のように解釈しているようだ。

 

怒るときは相手のしたことを怒るのであって、

その人自身に怒ってはならない。

 

 

さて。

「怒る」ことは「ペナルティ」であると置き換えてみると、

怒りがどんなものであるか見えてくる気がする。

 

例えばネズミの実験などで、

ある行為をしようとしたネズミに電気ショックを与えると、

その行動を避けるようになる。

 

このように「ペナルティ」を与えると、

反射的にその行動を避けるようにさせることは可能なようだ。

 

 

私は子育てをしていて思うのだけど、

一つだけ子どもを怒らなければいけないときがあると思う。

命の危険があるものを教えるときだ。

 

例えば歩き始めたばかりの子どもに、

走っている車の危なさを言葉で教えることはできない。

道路に飛び出そうとしたとき、

走っている車に近づこうとするとき、

これは子どもを怒鳴らなければ仕方がない。

 

そうしないと、理由はわからないがやってはいけない

ということが身につかない。

 

 

私は思うのだけれど、

世の中にある大抵のことは、

自分で考えて行動しなければならない。

人を叱ることで、理由を理解しないままに、

反射的にそれを避けさせることはできるかもしれないが、

その人を変えるということは出来ないのだろう。

 

 

社会に出て働いていると、それこそ様々な人と出会う。

自分にとって良い人もいるし、

良くない人もいる。

ある人を変えたいと思うのならば、

その人の行動を怒ることに、どれくらいの意味があるのか考えてしまう。

 

子育てをしていても思う。

子どもは様々な理由で、

言うことを全くきいてくれないというときもある。

つい言うことを聞かせたくて、

叱りつけてしまうことがある。

 

ああ、いつもやってしまったなと思う。