匠の相駕籠

ソフトウェア開発者の日常 - メメントモリ公式ブログ『匠の相駕籠(たくみのあいかご)』

つらつらと内面の話

 ブログの更新が、以前ほどは頻繁ではなくなったのは、ここに日々思っていることを書き下していく意味がなくなったことが、ひとつの理由だ。


 美しい文章や、面白い文章を書く才能をもった人々は、ごまんといて、人の人生に彩りを加えるような、輝くような文章は、今にも昔にも、読んで読みきれないほど存在している。

 

 エンターテインメントの世界には、遊んだり、楽しんだりするだけで、人生を終えてしまえるほどの量の娯楽が、わたしたちの前にところ狭しと並んでいる。

 

 

 ある人が言ったけれど、自分の作品(文章なども含む)を誰かが求めてくれると思うなんて傲慢で、この世界は、膨大な予算をつかって生み出されるものや、非常に希少な才能を持つひとが、努力によって到達した結果、作り上げたものがある。

 

 それを消費するだけでも、精一杯なのに、平凡な人間が、平凡な覚悟で生み出したものが、人から求められるという妄想は捨てることだ。というクリエイターがいた。

 

 

 わたしがブログを書いている理由は、もちろんいろいろあったし、書いているうちに変遷もしてきた。文章をタイプする指が止まってしまった、大きな理由としては、自分の未熟さに耐えられなくなったことだ。未熟さを隠さずに、ここに赤裸々に書いていくことすらも恥を感じる。

 

 実は、わたしはブログ以外にも、ノートに誰も読まない日記をつけている。20代前半の頃からはじめたので、ノートの冊数は10冊にいかないくらいだと思う。

 

 何を書いているかと言うと、自分が日々感じたことや悩みをつらつらと書いているだけで、特別面白いものではない。そんなことを数年間続けてきたのだけど、最近は日記に、自分の言葉をなにも書かなくなった。

 

 なんとなく本を読んで、面白かった言葉を、そこに書き留めることが多くなった。その時に自分が感じたことや、考えた言葉を、日記に書くのではなくて、そのときの自分のどこかに引っかかった人の文章が、日記に書かれるようになった。

 

 直接的な自分の言葉ではないけど、それは他人の経験や痛みや悲しみなどに乗り移って、他人の言葉なのに、これはまさに私のことを書いた日記なのだなと思わされる。自分の言葉ではないのに、自分の言葉になっている、不思議だなと思う。

 

 

 まだわたしは理解できないことがたくさんあって、自分の不出来を痛感している。最近、いろいろ物事がうまくいかないことが多かった。

 

 なんで自分の思ったとおりに物事がすすまないのだろう?

 

 そんなことを悩んでいると、次の言葉にぶち当たった。

 

 『出家とその弟子』という戯曲のなかで、すべての大切なものを失ってしまったものに対して、吐かれた言葉。

 

人間:あなたはあまりに残酷です。

顔蔽いせる者:お前の価(あたい)に相当しただけ。

 

 

 自分の力でうまく問題を解決できなかったとき、それがなぜだめなのか、答えを探そうとする。自分の心の中に、答えを探そうと、潜り込んでいくと、それは「自分探し」に似た様子となる。

 自分と他人との間にかかる橋を、自らの手で外してしまい、渦巻きの中心に落ちていく。

 

 こんなオヤジになってまで、人の子の親となってまで、自分探しをやっているんだろうか、私は。

 

 

 

 結局、自分の中は空っぽなのだということに気がついた。

 

 かの宮本武蔵が、道を求めて、乞食のような身なりと心に成り果てて、彼の師匠である東寔愚堂(とうしょくぐどう)和尚に救いを求めたことがあった。愚堂和尚は、宮本武蔵を中心にして、彼を取り囲むように、地面に丸(円)を書いた。

 

 その円を、限りなく縮めていくと、それはすなわち自分であり、それをそのまま大きく広げていくと、それは世界へと広がっていく。

 

 そこで宮本武蔵は、ある悟りを得たとある。

 

 

 

 ただ漠然とブログに言葉をつないでいては、時間を無駄にしてしまうなと思い、もうすこし物事を丁寧にやらなければいけないなと思った。

 

 ということで、かなり雑然とした内面の話で申し訳ありませんが、最近のことを書いてみました。